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2012/06/02

科学技術への不信って・・・

 震災後の原発や放射能の安全性にまつわり、これほどまでに科学への信頼性が失われたことはこの数十年でなかったように思う。まぁ日本における現在の体系の科学はまだ歴史が百年ちょいではあるが、今後も科学と長く付き合っていくとしたら、少々問題である。


 ときどき発言してる「百点満点シンドローム」とも関係するけれど、世間は

「科学は(普遍的な)真実

 

と考えている。さて、「科学は真実」か否か。これは難しい話だが、「科学者が常に真実を話すか」については、科学者も科学に基づいて真実(科学的真実)として話すものと、立証されない個人的な立場や意見(イデオロギー主張)として話すものがある。

 そして、意外と専門家の間ですら「どこまでが真実か?」のズレでもめることがある。さすがに専門家間では科学を正しく扱って議論することにより、「科学的真実」「イデオロギー主張」とを分けて、対立点を明確にすることができる。また、ある程度科学的手法を身に着けた人ならば、専門家の議論を見て、どこが真実とは限らない「イデオロギー主張」であるかを判断できるし、そういう議論をしていないとその人が専門家ではないこともなんとなくわかる。

 しかしながら、これが専門家と科学的手法を身に着けていない一般人とのコミュニケーションとなると、とても難しくなる。例えば、「放射能による人体への影響」の専門家の説明を見ていると、いろんなデータを見せながら安全と言ったり、危険と言ったり・・・正直科学的手法を身に着けていると思ってる私でもわからなくなることがある。議論をよく聞いていると、低線量被ばく(放射線をちょっとだけ浴びること)における発癌率と、その発癌率をどの程度危険と考えるかが対立点で、ここに「科学的真実」でない「イデオロギー主張」があるとわかるのだが、専門家間でようやく分離された「科学的真実」と「イデオロギー主張」について、一般人がそれらを誤解して、「イデオロギー主張」を「科学的真実」と見なしてしまったとしても仕方ない。

 そこへ「科学技術開発」なる言葉が登場する。科学技術開発とは、蒸気機関、電灯、無線通信、自動車、高層建築、原発、のように、自然法則を活用して人間に役立つものを作る、つまり発明のこと。発明を見ていただければわかる通り、科学技術開発は経済ととても相性が良い。というか、今の日本においては経済の駆動力であるとさえ言える。ここにまたややこしさが生まれる。科学者は、科学者の立場のまま科学技術開発を推進することが可能である。そして、その開発の安全性を評価するのも科学であり、科学者である。ここでよく生じる対立は、「経済を優先する科学」と「自然を守る科学」であるが、どちらも「人間の生活を守るため」と訴えている。もし科学が真実であるなら、どちらの科学者も真実のはずなのに、これでは多くの人が混乱してしまうことはいたしかたない。というより、当の科学者ですら混乱しているのである。

 ここで私から一つお伝えしたい。

「科学技術開発は、
真実を追求するものではない。」

 

 このことを分かりやすくするために、「科学的手法」に則ってきちんと定義から始めてみる。それを仮に、

    科学・・・自然現象を理解・記述するためのもの
    (真実を志向する)

    技術・・・人間活動(生活)に役立つためのもの
    (経済(等)を志向する)

としよう。例えば原発の場合、生活の利便性を追求する「技術」者が原発を推進し、その安全性を「科学」者が評価する、という考え方。もしこの立場の違いを皆がきちんと表明していれば、もう少し専門家と一般人の間のコミュニケーション、もしくは信頼は維持されたように思う。原子力ムラの教授がいつも「私は専門ではないが」と言いながら放射能の安全性(危険性)を訴えるようなイビツな構図はなくなり、「技術」者たる教授が原子力の有用性を訴えるに留め、「科学」者が安全性を評価する、という構図である。

 ところが、ここにはまだ一つ問題がある。先に定義した通り、科学は「自然」現象を理解・記述するためのものであって、真実を志向しており、ニュートラルである。でも、例えば

「にんじんはおいしいか?」


という問題を科学はどう評価するだろうか? 科学は「にんじんの健康への影響」は評価できる。しかし、科学は「おいしい・おいしくない」は判断できない。個人的嗜好、即ちイデオロギーにはそもそも科学を適用できない、という当たり前の話である。

「そんな役立たない科学なんかいらない!」


と言いたくなる気持ちはよく理解できるし、そういう気持ちがちょうど今の科学への不信感なのであろう。科学がないってのはルールのない格闘技みたいなもんで、単なる殺し合いにしかならないんじゃなかろうか。

 ではもう少し何とかしてみよう。イデオロギー主張になりやすい安全性について考えてみる。技術の成果である「無線通信、自動車、高層建築、原発」を見ると、共通性が見えてくる。

    携帯電話とペースメーカ(優先座席)

    自動車と自動ブレーキ(EyeSight)

    高層建築と耐震基準(姉歯耐震偽装)

    原発と・・・

これらを見ると、例えば免許や許認可、安全性基準など、法律・法規制が関連していると見えてくる。科学的には、最近のペースメーカは携帯電話の電磁波ごときで異常動作しないよう設計されている。「では1件もそうならないと保証できるか」と言えば保証できるメーカはいないだろう。メーカつまり経済に寄与する技術サイドは、「基準を満たしています」と表現するはず。自動ブレーキも、確実に重大事故を減らすことができるが、逆に自動ブレーキ起因の危険性がゼロとは言えないのも事実。ここで「100人救うために1人事故を起こす(比率は適当です)」という安全性の判断を要する。科学は「100人に1人」のような安全性の判断に必要とするデータを示すことはできても、どこまでが安全でどこからが危険かを決めることはできない。くどいようだが「にんじんはおいしいか?」を決められないのである。

 未だにいい方法はないかと考えているけれど、残念ながらこのような問題を解決するための暫定提案として以下の2つの当たり前のことしか思いつかない。

    科学は、安全性評価に必要なデータを、データの不確定性も含めて、提供する

    立法(≒政治)は、民のイデオロギー分布を反映させる方法に従って、安全性の基準を設定する

・・・当たり前すぎて成果ゼロ orz。大変申し訳ないが、少なくとも先日の再稼働容認について、その境界線で揺れる事情への理解に多少は役立てば幸い。そして最後に、科学的知識を要せずとも安全性基準を決定するという「政治」の気持ちを実感する問題を提案して締めくくりたいと思う。皆さんのご意見を伺えれば幸甚である。


トロッコが線路を走っている最中、制御が利かなくなった。このままでは線路の上で作業している5人がトロッコに轢き殺されてしまう。私は線路の分岐にいてトロッコを別路線に引き込めるが、そうすると別路線で作業している別の1人がトロッコに轢き殺されてしまう。私は別路線に引き込むべきか?

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